第五十一 朝鮮の事変と明治二十七、八年戦役
学習目的
隣国朝鮮との事変から、ひいては明治二十七、八年戦役に至る次第と事実を学習させ、我が国の国家的発展について会得させ、併せて国家と国際の生活、文化と戦争などについて適切な考察を行わせる。
学習事項
(一)明治十五年朝鮮京城の変
内治がだんだん整い、欧米諸国といよいよ親交を加えるちょうどその時、はからずも隣邦と兵を交えるに至った。
さきに我が国は明治九年二月江華条約を締結して、朝鮮の独立を認め、元山・仁川の二港を開いて修好することを約束した。朝鮮では当初大院君が摂政とあり、主として保守主義をとって意のままに振る舞っていたが、国王李熙(後の李太王)が成長するに及んで、王妃閔氏は政治に干渉し、政権は完全に閔氏に帰した。こうした間に政府中の世界の大勢に通じるものは次第に進歩主義をとり、我が国の陸軍中尉堀本礼造外数人を雇って朝鮮の兵士を調練するとか、金玉均・徐光範の二人を我が国に遣わせて、風俗制度を研究させたりして大いに改革を行おうとした。
おりしも朝鮮の官吏が官物を私用して、兵に糧食給料を与えないので、兵は怒って閔族を殺そうとした時、かねて不快を抱いていた大院君が、これを煽動したので、十五年七月二十三日閔氏の家を壊し、王宮に乱入して閔族を惨殺し、堀本中尉以下七人皆殺される。あまつさえ暴徒は日本公使館を襲ったので、花房公使は済物浦から英国船に便乗して同月三十日長崎について、我が国の政府はこの報に接して、外務卿井上馨を下関に遣わせ事を受理し、海軍少将仁礼景範に命じて軍艦二隻を、陸軍少将高島鞆之助に命じて、二個大隊の兵を率い、公使を護衛して朝鮮へ向かい、我が居留民を保護させた。
この時はすでに大院君が政権を握り、清国の袁世凱や丁汝昌がこれを助けて兵を朝鮮に出していたが、ここにおいて兵を構えることの不利を察した清国は、大院君を伴って自国に去った。
そこで我が国は国王に謁して要求を提示し、三日以内に回答を求めたが、期日に至るも答えはなかったので、公使の一行は京城を去って済物浦に至った。するとかの全権大臣李祐元など後を追って来て、はじめて談判を開き、朝鮮は償金五十五万円を支払い、日本公使館には一大隊の守兵を置くことなど六款を約束させた。時は八月三十日、これが済物浦条約で、この事件を明治十五年朝鮮京城の変という。
p232(二)明治十七年朝鮮京城の変
すぐに朴泳孝は謝罪の使いとして金玉均などと共に来朝した。我が国は竹添進一郎を公使として朝鮮に駐在させた。朴・金などは我が国の制度・文物を視察して帰り、同士と相談して国政を改め、我が国にたよって独立を揺るぎなくしようとした。これを独立党という。我が国はまた済物浦条約で得た償金中四十万円を返して、国政改革の費用に充てさせた。
独立党に反対して、保守を喜び、大国清につかえようとする閔族その他がいる。これを事大党という。清国は袁世凱に大軍をつけて、京城に入って事大党を助けさせた。
おりしも清国は仏国と事を構え、朝鮮を顧みる暇がないのを見て、独立党の朴泳孝・金玉均・徐光範・洪英植など少壮気鋭の徒が、明治十七年十二月四日京城郵便局開設の祝宴を幸(さきわ)い、保守派の高官泳翊を傷つけさせ、ただちに進んで王宮に迫り、閔族の権臣数人を殺し、翌朝大政維新を布告し朴・金などは新政府の大臣として、政権は完全に独立党に帰した。このとき朝鮮王の要請により我が国の竹添公使は兵百人以上で王宮を守る。
ここにおいて閔族はただちに清国に依頼した。よって袁世凱は兵二千を率いて王宮に迫ったので、我が国の公使は兵を率いて公使館に帰ろうとして、途上清韓の兵と衝突し殺傷されるものも多く、公使館に入ったが糧食が乏しいため、七日公使館を去り、翌日仁川に達した。この間に公使館は清・韓二国の兵に焼かれた。変報は十三日に至って日本に達したので、我が国は外務卿井上馨を特命全権大使に任じ、海軍大輔樺山資紀・陸軍中将高島鞆之助に命じて二大隊の兵を率いて、全権大使を護衛し、朝鮮に赴いて国王に謁見し、談判して京城条約五事を約束させた。その主な事は、十一万円の償金を支払うこと、公使館建築費二万円を弁償することであった。
十七年の変はこれでおさまったわけだが、しかしこの事変は、もともと清国にも関係することが多かったので、清国と相談して、他日の紛争を避けようとするために、宮内大臣伊藤博文を全権とし、農商務大臣西郷従道を副使とし、明治十八年二月二十八日横浜を出発して清国に向かい、三月十四日天津に到着し、清国の李鴻章・呉大徴と会見し、四月三日裁判をはじめて、次のような約款三項を議決して、四月十八日調印した。
(1)従来両国から朝鮮に駐屯させている兵士を撤去すること。
(2)軍事教練のために両国から教官を派遣してはならない。
(3)将来事があって両国が兵を朝鮮に派遣しようとする時は、互いに公文書を出して通知しなければならないこと。
世にこれを天津条約というが、我が国の全権の一行は二十日に天津を出発し、二十八日に帰朝した。
(三)清国と戦を開く
(1)防穀令事件 天津条約が結ばれたにも関わらず、清国は袁世凱を朝鮮に駐在させて、朝鮮の政権に干渉し、威権政府を圧し、日本の権力を伸ばすことはできない有り様であった。従って朝鮮は我が国を侮り、明治二十二年九月咸鏡道において防穀令を出すに至った。咸鏡道の中、元山地方は米の産地であったから、我が国の移民は多く、年々その地方の米を内地に輸送して業を営むものが多かったが、この防穀令によって、営業は完全に止まり、損害は大なるものがあった。時の朝鮮公使近藤真鍬は談判して、翌年この令を解いたが、我が国の商人が蒙った十四万円の損害賠償金の要求に対しては言を左右にして応じず、公使を交迭して梶山鼎助が交渉して決まらず、二十六年一月大石正己が公使となって強硬談判を行い、結局十一万円を我が国に支払わさせて局を結んだ。
(2)金玉均暗殺事件 十七年の変によって朝鮮独立党の朴泳孝・金玉均は日本に亡命していたので、我が国ではこれを助けて独立の優れた成果を挙げさせようと計る者は多かったが、事大党の刺客李逸植が日本に来て、かねて日本にいた洪鐘宇を語らって同士とし、洪に命じて金玉均を上海の日本ホテルに誘い、短銃で金を倒させた。金の従者である日本人和田某が、金の死体をもって日本に帰ろうとしたのに、上海警察署はこれを拒み、金の死体と洪鐘宇を清艦成遠に乗せて朝鮮に送った。朝鮮は大いに喜び、洪鐘宇を重職に用い、金の死体を寸断し、全国各道にすてて頭と胴は楊革津のほとりに梟首し、大悪不道金玉均之屍と書して傍らに立札した。これによって日本人の清国に対する敵がい心はいよいよ増長した。
(3)東学党の乱 この頃朝鮮の国勢は振るわず、内政はますます乱れて、人民ははなはだこれに苦しんでいたので、不平の徒も少なくなかったが、明治二十七年四月、全羅道の古阜に暴徒が起こり、儒・仏・道三教の粋をあつめた者と称して民望をあつめ、政府の虐政を責め、閔族の好き勝手をならし、乱を起こしてその徒は万をもって数え、勢いは猖獗を極めたので、朝鮮政府は洪啓薫に命じて兵八百を率いて討たせたが、かえって破れて帰った。こうして公州以南の地はことごとく東学党となったので、清国公使袁世凱は、朝鮮政府の関泳駿に勧め、清兵をかりて征伐させることとした。袁は、当時我が国内が政府と議会と衝突を重ね、議会は解散また解散という有り様であったから、到底外国などに兵を出すことはできないだろうと考えたので、直隷総督李鴻章に出兵を促したのである。こうして明治二十六年六月八日、清兵二千が牙山に上陸した。
我が国へは六月七日付をもって、いわゆる公文書を書いて出して通知することをした。その中に「我が朝が保護する属邦旧例」の一句があったので我が国は、「帝国政府はいまだかつて朝鮮をもって、清国国はなおも牙山に向かって兵を送る準備はできていたので、六月二日朝鮮出兵の御裁可を得て、四日大磯で病を養っていた大鳥公使を急行させ、十日出兵を清国に通じ、公使館・領事館・居留民を保護するため陸戦隊四十二人進発、次いで第五師団長陸軍中将野津道貫は混成旅団を編成し、陸軍少将大島義昌を出発させ、海軍も連合艦隊司令長官伊藤祐享が松島以下十隻で出勤、海陸共に仁川・京城あたり、勢威は優に清・韓二国を圧するというおもむきがあった。
大島公使は兵を率いて京城に入るや、閔は自ら責任を負って閉門し、清国は牙山に駐屯して進まず、東学党は両国の出兵に恐れて平定に帰した。
※猖獗(しょうけつ)=悪人や疫病などの悪いことや良くないものが強い勢いを持つこと。
※猖獗(しょうけつ)=悪人や疫病などの悪いことや良くないものが強い勢いを持つこと。