高等小学国史新指導書 下巻p208~

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第四十九 文化の発達

学習目的

維新以来の経済界・宗教界・教育界・芸術界の進歩発展の次第をわからせ、洋風輸入と国粋保存の関係的変遷につき会得させ、日本独自文化の建設について暗示を与えるのである。

学習事項

(一)経済界の進歩

明治のはじめ市民平等となるや、士族階級は進んで企業精神を発揮して、商法ないし工業会社などを作るに至った。しかし多くは侍の商法で、失敗に帰したが、政府がこれらに商法の知識を得させるなどの保護を加えたので、士族の中には実業界の先駆となる者が多かった。従って三井にしても、資本家に転嫁するためには士族の出である中上川を迎えざるを得なかった。その他も皆同じことである。明治以来の産業界ないし経済界は、こうして政府の保護によるところが多かったが、ともかく発達して、明治十年内国勧業博覧会第一回を東京上野公園に開き、この時から五年毎に開いて四回に及んだ。これによって農業・工業はますます盛んになり、また土佐藩岩崎弥太郎が、明治三年五月、土佐藩汽船三隻を借り受けて経営した三菱会社も次第に発展して、やがて共同運輸会社と合併して資本金一千一百万円の日本郵船会社ができた。これは十八年九月のことである。なお十七年五月には大阪港を起点とする小船主が互いに合わせて、資本金百二十万円で大阪商船会社を起こすに至った。次いで二十年四月資本金二十万円で浅野廻漕部も設立された。これは東洋汽船会社の前身である。こうした諸会社も起こって内外の交通・運輸は極めて便利となったので、商業はしたがって興り、海外との貿易も開けて行った。
維新以来政府は、財政ということに注意した。江戸幕府が崩壊したのも、建武中興事業の失敗に終わったのも、その重なる原因は財政の破綻にあったからである。
維新のはじめ国費は不足をつげたので、明治元年四月十九日、太政官札(金札)というものを官札発行と称して、全国に布告し、明治元年四月から二年五月までの間に四千八百万両、さらに明治二年九月十七日に小貨幣の欠乏を補うべく民部省札なるものを発行してこれを明治三年十月までに七百五十万両を発行した。
紙幣の濫発は紙幣の価を下落させ、物価が騰貴することは当然であった。ここにおいて政府は明治四年に新貨幣法を制定し、大阪造幣局鋳造の新貨幣を流通させて、金札を新貨幣と交換することとし、金札の流通を円滑にさせた。このとき鋳造の貨幣は金貨本位で一円・五円・十円・二十円の金貨と、銀貨銅貨の補助貨幣であった。ところが当時東洋貿易では、メキシコ銀貨が通用していたので、これと等大の一円銀をつくり、はじめは開港場のみ通用を許したが、明治十一年五月から一般に通用を許したから、ここで我が国は金銀複本位制となり、明治三十年三月二十九日公布された貨幣法によって金貨本位となったのである。
太政官札が、明治四年の新貨幣鋳造によって流通円滑、信用もようやく増加しかけた場合に、再び流通を困難にさせる事件が起こった。それは贋造がしきりに行われたことである。当時太政官札の贋造は内地ばかりでなく、支那においても行われた。そのためにまた信用を損じて流通を困難にさせたから、政府は明治四年十二月の布告をもって、九種(百円・五十円・十円・五円・二円・一円・半円・二十銭・十銭)の新紙幣をドイツに託して製造発行してこれと交換した。こうして政府の紙幣は一種に統一されたのであるが、その性質はいよいよ不換紙幣となってしまった。
そのうちに西南役の軍費に充てるために、新紙幣二千七百万円を発行したために、明治十二年には新紙幣の発行総高は一億二千万円に達し、この時からますます貨幣価値の下落、物価の昻上をきたして、経済界は不安に陥ったから、明治十五年六月二十七日太政官布告をもって日本銀行条例を公布し、兌換銀行券発行の権を与え、明治十八年五月、日本銀行がはじめて兌換銀行券を発行した。これより漸次発行額を増やし、従来の紙幣の兌換を行わせた。こうして経済界は大いに安定することになった。

 

p211(二)信教の自由許さる

このような間に諸種の文化も、まずまず健全な発達を遂げるに至った。維新のはじめ復古の気分は社会にみなぎり、天神地祇崇高の念を極端に激発させ、廃仏毀釈の説が勢力を得て、薩摩・長門・富山・松本などの諸藩では、争って寺塔を壊し、仏像・仏画・仏具を破却する者さえあらわれた。明治三年民部省内に寺院寮を設け、同年大教宣布といって仏教は宮中から出た。
しかし一般の信仰は衰えなかっただけではなく、僧侶はこれのために、安逸から目覚めて、明治二年の春京都に道盟会なるものが起こり、翌三年東京に移り、仏教の擁護振興につとめ、明治三年正月には福井藩では各僧侶に命じ同一学寮に収容し、教学の事業に従わさせ、同三月東京では各宗は総黉を設置し、教義を研究し社会教化につくすこととなった。
明治五年になると各宗は管長代理人を定めよと教務省から達せられ、各宗を代表する者を選定させたが、この頃からやや仏教保護の傾向があらわれた。同年までは本願寺法王の巡回布教をさえ禁じられたが、これも許可され、また本願寺は僧侶を洋行させて、宗教上の制度及び学術を研究させ、神仏分離信教自由を実行しようとした。政府はついに明治七年布達を発し、以後、神仏各宗は合同布教をしてはいけないと言った。明治七年七月大内青巒などの外護者が出て、「明教新紙」という仏教新聞を発行し、また各宗各自に教院を開き学校を建てた。
明治十年には内務省社寺局において神道・仏教を司ることとし、十五年神仏二道は各宗管長の制度となり、各宗が独立するに至った。
このような間に明治六年ついにキリスト教禁礼を撤去されるや、西洋の文物輸入と共に新旧両派は争って布教に従事し、邦人にも、早くこの伝道に従う者がいた。なかでも上野安中藩士の子で江戸で生まれた新島襄は、幕末その禁の厳しさを知り、元治元年春、年二十二にしてひそかに品川から船に乗って、アメリカに渡って、刻苦してキリスト教を研究し、明治七年帰朝して、翌年京都に同志社を建てて教育と伝道とに力を注いだ。明治十五年にはキリスト教英米宣教師の数は男八十九名、女子百四十五名の多さに及んだ。
こうして神・儒・仏・キリスト教がそれぞれ対立し、互いに競争をした代わりに、互いに発展もした。またいずれもいわゆる法難もあった。
それなのに明治二十二年憲法を発布されるや、儒教は宗教として公認されなかったが、神道・仏教・キリスト教は信教の自由となり、宗教上の争いはやんで、それぞれ円満な発達を見るに至った。

 

p212(三)教育の発達

明治五年八月には学制が定まった。中央集権的なところは仏国式、小・中・大学の階級的連絡は米国式によったもの、学風は一般に米国風であった。
明治十二年九月には、教育令が発揮され、大・中・小学区を廃し、町村に命じて小学校を設立させ、町村自治により、六歳から十四歳までが学齢で、就学義務期限は十六ヶ月ということになった。
十三年二月の改正教育令において、三ヶ年間毎年十六週以上の義務教育とし、十四年五月には小学校を初等三年、中等三年、高等二年とし、十八年に教育令改正があったが、これは実施しないで次の改正となったもので、このへんまでは学制の反省時代ともいうべく、学風はペスタロッチーやスペンサーが流行した。
十八年、官制に大改革があって、文部大臣森有礼は翌十九年学校令を発布した。小学校令は尋常と高等とに別け、小学簡易科をもって尋常に代用する。二十三年また改正小学校令が出て、尋常は三年または四年とし、高等は二年・三年または四年とした。
中学校は学制の中に上等・下等の二中学と、変則中学というものがあったが、十四年には初等・高等の二種とし、十九年には高等・尋常の二種とし、大学予備門を第一高等中学校とした。
こうして普通教育が行き渡ると共に、帝国大学及び各種の専門学校も設けられて、高等の教育もおいおいに進み、今まで世に顧みられなかった女子教育及び実業教育などもだんだん興って来た。
明治新政に入ってから後も、教育の制度は、なお江戸時代のものを、そのまま引き継いだもので、江戸幕府の開成所(蕃書調所とか洋書訓所とかいった)をもって学校となし、ここでもっぱら洋学を修めさせた。二年六月には昌平校を大学校と称して、開成校・医学校などを管理させた。次いで大学校を大学と改称し、開成校を大学南校と称し、医学校を東校と称し、四年には大学を改めて
文部省とした。
明治五年全国を八大学区としたことは前に述べたが、明治十年大学東南両校を合併して東京大学と称し、法・理・文・医の四学部を置いて、学術の蘊奥を究めるところとした。明治十九年の学制大改革の際、工部大学校をこれに併せて帝国大学と改めた。二十三年は農科大学もできて六分科となった。京都大学が置かれたのは三十年である。
学校にも官・公立の他に私立の学舎が設けられるものも少なくなかった。福沢諭吉天保五年十二月生まれ、豊前の人、緒方洪庵について蘭学を修め、安政五年江戸に出て英語を研究し、翌年幕府の使節随行してアメリカへ行き、後また欧米に漫遊し、さらに慶応三年アメリカに行ったことがあった。慶應義塾をたてたのは安政五年で、これは明治四年に三田に移った。
福沢は一方では旧思想破壊の鉄槌をふるい、一方では新思想・新文化の建設に努力した。主としてアメリカの思想を重んじ、天賦の人権を尊び、自由平等の理を説き、実用主義を可とし、独立自尊を宣伝した。「学問のすゝめ」「西洋事情」などの著書を見ると福沢が偲ばれる。福沢に対して中村敬守のイギリス思想を吹聴する者もあり、加藤弘之のドイツ思想があり、明治の文化も繚乱の様を呈した。
この福沢が戊辰の騒乱中にも、なお自若としてウェーラントの経済学を講じていたというが、それは慶應義塾が一橋辺りにあった頃である。
また大隈重信天保九年の生まれ、新思想には割合に早く触れることの出来た人。それは佐賀藩福岡藩と隔年交代で長崎警固の任務を司っていたからである。関直彦が大隈重信の偉勳を三つ数えたことがある。その一は維新の功勳である。その二は憲政に対する偉勳である。その三は教育上の功績である。
彼は明治十五年に私財を投じて早稲田専門学校を創立した。明治十七、八年頃より早稲田出身の人々は政治に実業に、文学技芸にいずれも国家社会のため有用な活動をしている。
早稲田の他イギリス法律学校(中央大学明治法律学校明治大学専修学校専修大学和仏法律学校(法政大学)あって、いずれも政治・経済の学を授け、東京の五大法律学校といった。
また明治六年に創立して、十八年に廃校となった中村正直の同人社、明治八年創立以来いよいよ盛んとなった新島襄同志社など教育の設備はいよいよ備わった。
しかしややもすれば、西洋の文明に酔って、我が国古来の道徳を軽んじる傾向があって、教育の主義も動揺していたようである。ここにおいて明治二十三年十月三十日、天皇、教育に関する勅語を下して、国民道徳の大本を示しなさる。史家は明治二十年頃から二十七、八年頃までを、国粋保存の期だともいうが、我が国の教育勅語はこの時期に煥発されたものであるだけに、まことに全国史の結晶がここに表現された観があり、国民の向かうところは示された。明治天皇が「みなその徳を一つにするだろうことを請い願う」と結ばれた、いわゆる「一徳」の教えをもって、力強くその向かう所を示されたものである。これによって教育の方針が確定し、文化発展の理想が明瞭になった。