高等小学国史新指導書下巻p223~

p223 第五十 条約改正と法典の編纂

学習目的

明治三十二年改正条約が実施されるに至った次第と、その頃の法典編纂の進捗についてわからせ、内地外交上の顕著な発展を認知感得させるのである。

学習事項

(一)条約改正に努む

安政五年(二五一八)に条約の草案を議した際には、法権・税権など、不面目・不利な点が少なくなかった。すなわち法権においては治外法権を、税権においては不対等関税を認めたのであった。この不平等な条約が、安政五年六月井伊直弼によって調印され、万延元年(二五二〇)新見正興を米国に遣わせて批准交換を行った。この条約は特許を受けていなかったから、世に仮条約といい、それが勅許されたのは、慶応元年であった。
この条約によって我が国に在住する外人の横暴跋扈は制するのに手段なく、常に国民非憤の種となっていたが、明治政府はこの負債をそのままに継承したのみか、さらに負債を借り増した事実もある。すなわち明治二年にオーストリア=ハンガリー帝国と新たに通商条約を結んだ時には、外国公使団を牛耳っていた英国公使パークスが、自分の公使館に宿泊させていたオーストリア=ハンガリー帝国公使の代理となって、我が国の外務卿沢宣嘉と折衡して、うまく日本の権利を縮小し、そうしてから諸外国はオーストリア=ハンガリー帝国の最恵国権利利益を平等に受けさせることとしたのである。後日大隈重信の懺悔するところによれば、「この当時は治外法権とか最恵国条項とかいうものも実は明らかではなく、オーストリア=ハンガリー帝国との条約でも、さほど不利ではないと思っていたが、おいおい経験してみると、はじめて不当な条約であることがわかった」と言う。果たしてそうであるなら、安政においては国力の不足から、明治のはじめは知識の不足から、不利・不面目な条約を結んだことになる。
これら条約の改正は容易な業ではなく、維新以来の宿題であったが、明治四年に岩倉具視らを欧米に派遣したのも、実は翌五年七月四日以後は条約改正をなし得るはずであったから、その一年前に各国と意見を交換して、来年東京で改正談判を開こうとしたのであるが、最初に訪れた米国で、もはや物にならず、よって条約改正の交渉は打ち切って、ただ諸外国の事情を見、兼ねて親睦を加えることを目的として巡遊してきたわけである。
その後政府は絶えず熱心に、その改正をはかったもので、明治十年には外務卿寺島宗則が関税方面の改正を米国に同意させたが、これは他の一国も同様の条約を結ばない限り有効にならないのであって、時に英国はこれに反対していたから何の効果もでなかった。そのうちに英国人ハルトレーが阿片の密輸をやったのを、我が国の税官吏が見つけて、訴訟となった時、横浜の英国領事館が、ハルトレーの無罪と判決したので、我が国の官民は一斉に起こって、治外法権の撤廃を要求したので寺島は辞職した。
十二年九月には井上馨が外務卿となり、それより条約改正に努力したが、条約改正の中に、我が国の裁判所に外国人を用いることがあったので、これも国民の反対にあって失敗に終わった。
十八年十二月に伊藤第一内閣が成立するや、井上馨は続いて外務大臣となり、我が国を欧化することによって条約改正に成功しようとし、一方では十九年五月一日より、改正案を十二国の公使に示して外務省と会議を重ねること二十九回、二十年四月二十日ようやく全部を議決し、今度は成功しそうにあったが、極端な欧化政策は国民の義憤を買ったので、伊藤総理、山縣内相などが互いに謀り、二十年十二月十九日保安条例を発布して即日実施し、政府に反対する志士当人五百七十名は、ことごとく皇城三里の外に駆逐するという暴挙を敢行した。しかし井上は外相の地位を去り、せっかくの改正案も流れてしまった。
井上に代わって大隈重信外務大臣となったのは二十一年二月であったが、大隈は国別談判をなし、ほぼ成功しかかった際、ロンドンタイムスによってその改正案が我が国人の知るところとなり、その案には外国人を我が国の裁判に加えさせることや、土地の所有を外国人に許すことなどがあったので、また反対が起こり、二十二年十月二十四日、大隈が内閣会議を終えて外務省へ入ろうとする時、福岡玄洋社の徒、来島恒喜が爆裂弾を馬車に投じ、大隈は片足を失い、内閣総辞職となって、改正案も流れてしまった。

 

(二)法典はおいおい編纂される

条約改正が容易に決しなかったのは、国内の法典がいまだ備わらず、我が国情が諸外国によく知られなかったためである。
維新のはじめ、政府は地方によって、それぞれ異なった法制を統一しようとして、まず、明治三年十二月に、大宝の古律を基礎とし、明清の律令をも参酌して、「新律綱領」を作製した。
明治五年には刑務省弾正台を廃止して司法省を置き、明治六年に時の司法卿江藤新平は、仏国の法律を参考して刑律の改正を始めた。この時まではまだ拷問の道具などもきまっていたので、天皇は特に詔して、法を定めるには寛恕を旨とさせなさったので、聖旨を奉体して、努めて刑罰は軽いに従うこととし、「改定律令」三百十八条を作った。
さらに西洋の法律を参考として、たびたび改定し、十五年一月に至って刑法並に治罪法が実施された。
二十三年十月には治罪法を廃止して刑事訴訟法、次いで民事訴訟法・行政裁判法・裁判所構成法など年をおって編纂され、立憲政体は確立するし、我が国の真価もだんだん列国に認められたので、条約改正の談判も、前日のような困難は少なくなった。

 

(三)改正条約実施される

二十二年十二月山縣内閣が成立するや、青井周蔵が入って外務大臣となり、条約改正に努力し、ほぼ仕上がろうとしていた時に、二十四年松方内閣が成立して週日を出ない五月一日、近江大津において巡査津田三蔵がちょうど来遊中のロシア国皇太子ニコラス親王に傷つけたいわゆる大津事件(湖南事件)が突発し、我が国の上下は挙げて事の重大であるのを震撼し、政府のあわてふためきは勿論、長くも明治大帝の御心を悩ませなさったことは御一方ではなく、天子の乗り物を大津に進めさせられ、御親らロシア国御世継ぎを御見舞わせなさり、滋賀県知事沖守固は免職となり、内相西郷従道・外相青木周蔵の二人辞職するに及んで、これまた条約改正は中止となった。
そのうち明治二十五年四月には、明治天皇が「朕は即位以来内治百般の事、ほぼ、その緒につくも、外政はいまだ挙がらないものがある。思うに条約改正は、中興の鴻業に伴って起こり、国権の大本に関係する。朕は我が臣民と共に条約改正の成局を望むのは切である」との内詔を下された。
松方内閣はこの内詔に奉行の暇なくして退き、次いで二十五年八月伊藤第二次内閣成立し、陸奥宗光外務大臣となるや、聖恩が凱切であるのに感激して事に当たり、陸奥青木周蔵の案を基礎として、条約改正の成案を得、まず英国に同意させ、二十七年七月十六日調印が終わった。日清開戦は八月一日に宣戦の詔勅が下っているから、その直前に条約改正が成功したのである。戦争中ではあったが、十一月二十二日に米国がまた同意して調印し、この時から戦争の勝利に我が国の実力は認められ、各国との談判は急激に進行し、三十年十二月五日オーストリア=ハンガリー帝国との改正条約締結を最終に、維新以来難渋を極めた条約改正の事業も、完全に局を結ぶに至った。陸奥は一方では日清戦争を処理し、一方ではこの難事業を解決したという、裁判利刀のような人で属僚はこれを剃刀大臣と言っていたが、二十九年五月三十一日職を辞めて、三十年八月二十日ついに薨じた。享年四十五。

改正条約は明治三十二年から実施されることとなり、国民多年の希望はここに達せられ、治外法権は除かれ、外国人も内地に雑居して、我が国の法権を受けるに至り、ただ税権の方は全く回復されてはいなかった。すなわち英・独・仏に限って、我が国から輸出するものの国税率はその国が決定し、我が国に輸入されるものの税率はこれら輸出国の協定を要することとなっていた。この規定は明治四十四年までの期限となっていたから、この年四月英国と関税の双務協定すなわち両締約国相互に税率を協定する約款を議定し、その他の国と同様に協定は成立し、四十四年七月より完全に対等な条約が実施されるに至った。
ちなみに我が国も、真に一人前の国となったのは、明治も末年になったことを思えば、まことに我が国も若い国であり、新興の国である。発展をなお将来に待たねばならない。

(四)諸種の法典が備わる

改正条約が実施された頃、諸種の法典もまた施行された。政府はかねて、我が国古来の習慣を基礎とし、さらに西洋の法制を参酌して、民事及び商事に関する法規を編纂していたが、いよいよ民法は三十一年七月から、商法は翌年六月から実施されることとなった。また時勢が進むと共に、刑法の改正も行われて、四十一年十月から実施され、法典はいよいよ備わって、大いに社会の発達を助けた。

 

学習参考

(1)挿絵解説

「列国の公使と条約改正を議す」の絵は、聖徳記念絵画館画題考証図の内五姓田芳柳氏筆に拠ったもの。外務大臣井上馨が、明治十九年五月一日から翌年四月二十日までに十二国の公使と外務省で会し、前後二十九回の会議をした。改正条約も議決したのであるが、総理伊藤博文、外務井上馨の極端な欧化政策が国民の反感をかい、井上外務が退いたので、改正案は流れたのであった。
この図の会議には十四名いる。正面にいるのが井上外務大臣、その左が伊藤総理、他は十二国公使のように思われる。

(2)指導要領

当時における我が国の実力と外国の実力を比較して学習する。その間に我が国が、負けじ魂を発揮して、外交に内治に努力していく先人の態度を十分に味あわせる。
現在に投影している法律や条約を学習環境にもたせて、それの史的研究に遡れば、この教材の学習となるわけである。

※鴻業=帝王の業