高等小学国史新指導書下巻p333~

p333

第五十八 大正天皇崩御 今上天皇の即位

学習目的

大正天皇崩御のことから天皇の御聖徳を偲び申し上げ、今上天皇践祚並びに即位のことから国家的発展を認感させ、かねて聖旨によって将来国民の向かうべきところを会得させる。

学習事項

(一)大正天皇崩じなさる

大正時代のように、あまり近い距離にあるものは、学者も大胆な発表をすることは控えているし、これを大観することも実は困難である。後の影響関連がわからないからである。
中村博士は、この困難を肯定した上、「思いを数十年の後に馳せ、後世の歴史研究家という態度をもって、この時代を回顧するならば、必ずしも大正時代の歴史上の意義を論定することができないということはあるまい」と言われ、そうしてから次のような三つの特質をこの時代から汲み出しておられる。

(1)守成紹述の精神
(2)国民的自覚の発揚
(3)転回進歩の機運

これはたしかに要に当たっていることと思う。明治時代を継承発展させたこと、明治時代よりもよほど批判的になっていたこと、この時から独自的文化発展をすることに心が動いたことは、たしかに認めるべきことである。このように見るならば大正時代は歴史上実に有意義な時代で、将来の発展はこの時代に約束されている。
こうも有意義な時代を創り出された大正天皇、御仁徳が特にすぐれなさった天皇の御恩沢を今さら感得せずにはいられないのである。
大正天皇は元来蒲柳〔※虚弱〕の御質をもって、松柏〔※節を守り変えない〕の御心をお抱きなさったもので、御降誕後、三週目を出ないうちに脳膜炎様の御疾患におかかりなさり、御幼年時代には重症の百日咳、腸チブス、胸膜炎を経過され、御践祚以来、格別に内外の政務は御多端、世界大戦など過重の御心を労しなさり、糖尿病の御傾向が出て、時々坐骨神経痛を発症なさり、摂政御任命の前後には御脳力減退して、御発語に御障害が出て、その後病勢は一進一退、そのうちに脳貧血様の御発作があり、大正十五年八月十日葉山に御転地遊ばされ、やがてまた気管支カタル御併発、十月二日内科の泰斗、稲田龍吉博士を宮内省御用掛に任じ、入澤侍医頭以下は詰め続け御診察申し上げ、全国民は赤誠を打ち明けて神仏に祈願し、御容体が発表される毎に一喜一憂、ひたすら御回復の日を待ったのであるが、大正九年三月三十日宮内省から御発病の発表があってから、ここに七年、十二月二十五日午前一時二十五分葉山の御用邸でついに神去りなさる。時にかしこくも四十八歳の御壮齢でいらっしゃった。国民の悲嘆は言わん方もなかった。

(二)今上天皇践祚しなさる

天皇が御崩御なさるや、皇太子裕仁親王はただちに践祚し、大正十五年を改めて昭和元年としなさる。
昭和というのは「百姓昭明、万邦協和」ということからとったもので、ここにも新時代の理想がかがやかしくあらわれている。
天皇は昭和元年十二月二十七日東京に環幸おありになり、翌二十八日、宮中正殿に文武百官を召して朝見の儀を行いなさり勅語を下しなさる。勅語の中には

今や世局は正に会通の運に際し、人文はあたかも更張の時期にあたる。すなわち我が国の国是は、日に進むにあり、日に新たにするにあり、そうしてひろく内外の史に照らし合わせ、つまびらかに得失の跡にかんがみ、ひたすら進むやその序にしたがい、新たにするやその内を執る。これは深く心を用いなければならない所である。それは浮華をしりぞけ、質素をたっとび、模擬をいさめ、創造をはげみ、日進をもって会通の運に乗じ、日新をもって更張の時期を拓き、人心はこれに同じく、民風はこれにひろく、一視同仁の変化をのべ、永く四海同胞のよしみをあつくするつもりのこと。

 

ということが載っている。何たる堂々たる昭和初頭の御宣言であろう。ここは左翼も右翼も共に解消すべく、模擬をいさめ創造をはげみ、東西文化を融合して日本独自の文化をつくり、もって世界に貢献せねばならない。昭和新政のモットーはすでにかかげられたのである。

(三)大正天皇の御葬祭

昭和二年一月には先帝に大正天皇の御追号を差し上げ、翌月御大葬の儀を行いなさった。大正天皇神去りまして四十五日間は、神霊はなお殯宮におりましたが、昭和二年二月七日午前六時霊柩御発引、八時三十分新宿御苑前葬場殿にお入りなさり、午後十一時最後の御別れを惜しみなさり、八日午前零時五分霊柩車に移御、一時三十五分東浅川駅御着、これより参道十三町をお進みになり、武蔵南多摩郡横山村大字下長房龍ヶ谷戸の御料地を占って、閑院宮殿下御親筆の御陵誌を石室に向かって右側に奉置して、御盛土を行い奉る。多摩陵と申し、上円三段下方三段であること、伏見桃山陵と同じことである。

(四)今上天皇即位の大礼を挙げなさる

昭和二年十二月二十五日をもって、大正天皇の喪が終わったので、昭和三年十一月十日をもって、即位の大礼を京都の皇宮で挙げなさった。
この日は、京都皇宮春興殿に渡御奉安いらっしゃった賢所の大前で、午前八時三十分から両陛下はお進みなさり、天皇御告文を奏しなさり、親しく即位の事情を高祖天照皇大神に告げなさって、午前十時頃入御おありになる。この時内掌典は大前に捧げた御鈴を九十九度御演奏申し上げるので、神鈴は神々しくさえて森厳極まりない御式であった。この点については挿絵開設においても述べる。

午後は紫宸殿の儀で、諸役座につき、天皇高御座にのぼり、皇后は御帳台に着座しなさる。すぐに黒色の袍に黄金作りの太刀をはいだ内閣総理大臣田中義一はおもむろに両階を下り、右近の橘の南方を経て南階段下で貴人に奉仕し、北面して付き従って立つと、天皇はおそれ多くも立御しなさり、内大臣が捧げる勅語を御手におとりなさり、玉音朗らかに勅語を下しなさる。

 

朕は思うに、我が国の高祖高宗はただ神の大道にしたがい、天皇の政治を施策し、万世不易の王業をはじめ、一系無限の永寿を伝え、それは朕の身におよんだ。朕は祖宗の威霊に頼り、つつしんで大統をうけ、うやうやしく神器を奉し、ここに即位の礼を行い、はっきりとなんじ国民に告げる。
高祖高宗は国を建て民に臨むや、国をもって家となし、民を視ることは子のようだ。歴代の天子は受け継いで、仁恕の化を下にあまねく、万民を率いて、敬忠のならわしを上に奉し、上下は真心を通わせ、君民は体を一つにする。これは我が国の国体の精華で、まさに天皇祖先が古今に臨んで維新の大きな計画を開き、内外に照らし合わせて立憲の遠謀を敷き、文を縦糸とし、武を横糸とし、希代の大業を建てる。先祖先朝の広大な計画の義務を受け継ぎ、中興の大功を押し広め、もって皇風を世界に言い聞かせる。朕は(人徳などが)少なく薄いことをもって、かたじけなく遺業をつぎ、祖宗の擁護と億兆の補佐とに頼り、もって天職を治め、堕落することなく、誤ることがないつもりのことを請い願う。
朕は、内はすなわち教化を醇厚にし、いよいよ民心が和会を致し、ますます国運の隆昌を進めるつもりのことを思い、外はすなわち国交を親善にし、永く世界の平和を保ち、あまねく人類の福祉を益するつもりのことを請い願う。なんじ国民その心を合わせ、力を合わせ、私を忘れ、公に奉し、そして朕の志を助けて完成し、朕に祖宗の残した言説の功績をあげて、もって祖宗神霊の降臨がこたえることを得させよ。

 

総理大臣は続いて南階をのぼって南栄の上に立って寿詩を奏し申し上げ、終わって庭上の両万歳旗の中央に降り立って、高御座に立脚します天皇を拝し申し上げて、厳粛荘厳に「天皇陛下万歳」を唱え申し上げ、続いて「万歳」また「万歳」と三唱すれば、時はちょうど三時、参列議員はこれに和し、同時に全国津々浦々これを唱和し申し上げた。ドイツの大使は「日本の偉大な源泉を知った」と言ったが、この辺のことであろう。門外の儀仗兵は音色が遠くまで響きわたるラッパを演奏し、百一発の皇礼砲ひびく。山河の揺らぐ国民の歓喜、新日本建設の意気はあふれている。
それから十四日には大嘗祭を行いなさる。大嘗祭は、新帝が御代のはじめにおいて行いなさる新嘗祭で、天皇御みずから夜を徹して天神地祇をおまつりになった。純粋国風の神代ながらの御作法である。ついで十六・十七日は大饗の儀を行いなさった。これらの御儀式はすべて明治天皇が御定めになった登極令によるもので、この令による即位の大礼としては大二回目、しかし大礼経費の変遷をみるに、正親町天皇の御時は千石、仁孝天皇は二千八百石、孝明天皇は四千六百石、明治天皇は四万二千五百円、大正天皇は五百四十万円、今上天皇の場合は一千六百七十万円ということになっている。したがってこの御大礼はいずれも古今ならびなき盛儀であって、万民はいよいよ皇位の尊厳、国運の発展を認感して、日夜励精、聖慮に添い申し上げようと誓ったものである。

ちなみに即位の大礼前後の日程は次の通りであった。

十一月  六日 午前七時御発車
        同 八時東京駅御発車
        午後三時三十分名古屋駅御着車(行在所は名古屋離宮
同    七日 午前九時名古屋離宮御発車
        同十一時名古屋駅御発車
        午後二時京都駅御着車京都皇宮着御

同    十日 即位の大礼
同   十四日 大嘗祭
同 十六・七日 大饗
同   十九日 山田駅着御(行在所神宮司応)
同   二十日 豊受大神宮御親謁
同  二十二日 京都皇宮還御
同  二十三日 神武天皇山陵御親謁
同  二十四日 仁孝天皇山陵、孝明天皇山陵御親謁
同  二十五日 明治天皇山陵御親謁
同  二十六日 名古屋着御(行在所名古屋離宮
同  二十七日 東京還幸
同  二十九日 大正天皇山陵御親謁

学習参考

(1)挿絵解説

「多摩の御陵」は写真によったものである。本文にも書いたように、昭和二年二月八日午前一時三十五分東浅川仮駅に大正天皇の御霊柩が御着きになった。これより御陵参道十三町をお進みになり、霊柩は軽運台のままに四十尺の高さがある玄宮に向けインクラインを伝わせてしずかにお昇りなさる。玄宮はこの時から横穴とし申し上げる。玄宮は五十尺ばかり、鉄筋コンクリートの基礎工事を行った上に、高さ二間で八間四方の鏡のように磨いた岡山産花崗岩の石室を設けたもので、玄宮の門を閉じた後、閑院宮殿下の御親筆になる多摩陵その他を記した御陵誌を石室に向かって右側に奉安し、後に御盛土を行い申し上げた。御石室は山陵上おごそかに庶民の遥拝に任せてそびえさせ、山陵百日祭の四月三日が過ぎて、はじめて宮内省内匠寮の手で山陵工事が開始され、上円下方の御陵形に出来上がったのである。この御造営工事は御一年祭に先だって十二月二十三日完成報告の儀が行われた。この完成の御陵を二十一日に宮内省写真班が謹写したので、挿絵もこれによっているようである。

浅川東口からの御陵参道は七間幅、その両側に一間ずつの植樹帯、その他に二間ずつの歩道があるから総計十三間幅となる。大鳥居は高さ二十二尺の台湾檜である。
上円三段下方三段の御陵表面は直径五寸の御影丸石でおおわれ、周囲には二千五百平方メートルの所に内玉垣を設け、その中には玉川砂利の清楚なものを敷き詰めてある。
「春興殿」の挿絵も写真によっている。天照皇大神の御霊代である三種神器の一つである御鏡を清めて神に仕え、祀る所を賢所といい、やがて御鏡のことをも賢所というが、その賢所は陛下御一代ただ一度御即位の礼の御時に限って京都へお移しなさるのであるが、すでに今上天皇賢所を捧持して昭和三年十一月七日京都皇宮に着御、春興殿に奉安おありになる。
即位の礼を分けて、賢所大前の儀と紫宸殿の儀とするが、賢所大前の儀は十日の午前に行われたのであるが、これはこの春興殿で行われたことである。
春興殿の向かって左には、御同道になった御羽車(賢所を乗せ申し上げる)を入れる御羽車舎、向かって右には奏楽舎、神楽舎の右左にとばり舎がたっているはずである。春興殿の中は外陣・内陣・内々陣に区画されていて、その内陣に両陛下の御座が設けられる。
今上天皇の場合は即位礼の喜びを下万民に分かちなさる大御心から、御大礼式場あとを十二月一日から期間を限って拝観を許されたものである。

(2)指導要領

これは環境となるものが豊富であろう。特に当時の体験的思い出話によって、国民意識を十分に味合わせるようにしたがよい。
即位大礼の盛儀についても、よくその頃に気分に浸らせて、日本的観念を構成するよう指導せねばならない。
大礼の盛儀などは、製作的に指導すると能率が上がる。こうして国体の観念を養い、昭和の大理想は何であるかを頭に入れる。
大正時代をここでまとめて、昭和の時代を展望させるのである。
また大正天皇祭とか、天長節とか、地久節とかと連絡して「祝祭日と記念日」、「年中行事」、「我が国の外交」、「我が国の政治・政党」、「我が国の文化」というような課題を立てて、最も新しい材料すなわち現生の歴史的解釈を相当の時間をかけて取り扱っておいた方がよいと思う。こうして国史全体の総括的取り扱いをなし、国民の覚悟に及んで国史学習を終わろうとする。

 

 

※守成紹述は、先人からの事業を守り継続していくこと

※会通=会合と変通。物が集まることと変化すること。
※更張=ゆるんだ琴の糸などを張りなおすこと。転じて、ゆるんでいた物事を引き締めて、盛んにすること。
※浮華=うわべははなやかだが実質・実体のないこと。
※一視同仁=すべてを平等に慈しみ差別しないこと
※四海=全国

※仁恕= 情け深く、思いやりがあること