高等小学国史新指導書下巻p313~

第五十七 欧州の大戦とわが帝国の地位

学習目的

欧州大戦に加わった我が国の正義と活動について、皇太子が欧洲を巡遊しなさることがある。ワシントン会議に参加することがあって、我が国がいよいよ世界的に重きをなすに至り、戦後は外交の中心が東洋に移って来た中にあって隣邦と好を修め、極東平和の責任を果たしつつある点につきわからせ、我が国の国際的発展について認知感得させる。

学習事項

(一)欧州の大戦が起こる

明治の盛世を受けて大正の御世に入るや、たまたま欧州において、未曾有の大戦が勃発した。
この大戦は、いわば十九世紀文明の総勘定としてこれを葬り、国際関係を根本的に解体し、あらゆる生活に大変革を与えた有史以来の出来事であった。これはそもそもどのようにして起こったものであろうか。大戦の重大原因といわれるものは、

(1)英独の経済的・政治的世界政策の衝突
(2)ロシア・ドイツの経済的・政治的世界政策の衝突
(3)フランス・ドイツの旧怨及び殖民的利害の衝突
(4)各国における異分子の民族的統一の運動

この四つである。由来するところは遠くて複雑であるが、事の近因は、欧洲の伏魔殿といわれたバルカン半島において、大正三年六月二十八日、ボスニアの首府サラエヴォオーストリア=ハンガリー国世継ぎフランツ・フェルディナンド大公及びその妃が、セルビアの一青年ウリロ・プリンツなる者に暗殺させられたことにある。
この報が一度伝わるや、欧洲の人心は動揺し、七月二十三日オーストリア=ハンガリー国とセルビア、次いでロシア・オーストリア、ロシア・ドイツ、イギリス・ドイツ、日独の開戦となり、トルコが同盟軍に加わり、イタリアが連合軍に参加し、結局は次のように戦ったことになる。

連合側

セルビア ロシア フランス ベルギー イギリス モンテネグロ 日本 ポルトガル イタリア ルーマニア ギリシャ アメリカ キューバ パナマ シャム リベリア 支那 ブラジル グアテマラ ホンジュラス

同盟側

オーストリア=ハンガリー ドイツ トルコ ブルガリア

こうして連合軍の動員兵数四千四百万人、同盟軍二千五百万人、戦線百三十里、連合軍戦死者七百万人、同盟軍の戦死三百万人、連合側戦費二千七百億円、同盟側一千億円ということになった。
この戦争で英国が参加することになると、次に起こって来る問題は日英同盟(明治四十四年修正の日英攻守同盟で期間十年)に繋がる日本の態度であった。外務大臣加藤高明は、日英同盟が自動的に参戦を要求するものと信じ、局外中立の声明もしないで余儀ない場合の準備をしていた。果たして八月七日英国から助力を求めてきたので、十五日次の通告をドイツに手交した。
帝国政府は現下の状勢において、極東の平和を乱すに違いない原泉を除去し、日英同盟協約の予期した全般の利益を防護するという措置を講じるのは、該協約の目的とする東亜の平和を永遠に確保するために極めて枢要の事であるのを思い、ここに誠意をもってドイツ帝国政府に勧告するのに、同政府において左記二項を実行しようとすることをもってする。

第一 日本及び支那海方面から、ドイツ国艦艇が即時に退去すること。退去することができない者は直ちにその武装を解除すること。

第二 ドイツ帝国政府は膠州湾租借地全部を支那に還付する目的をもって一千九百十四年九月十五日を限り無償無条件で日本帝国官憲に交付すること。

日本帝国政府において、上述の勧告に対し、一千九百十四年八月二十三日正午までに無条件に応諾の旨、ドイツ帝国政府から回答を受領しない時においては、その必要と認める行動を取るべき事を声明する。
これに対してドイツの無回答拒絶の意志が明白となったので、同日たちまち宣戦の大詔は煥発され、我が国はますます交戦国の列に入ったのである。

(二)わが軍の活動

我が国が交戦国の列に入ると共に起こった日本に対する一つの提案は、日本軍の欧洲出兵である。数回の懇請をうけたが、我が国は拒絶した。その理由とする所は次のようである。

(1)帝国軍隊の唯一の目的は国防にある。
(2)十個軍団も送れば帝国は無防備の状態となる。

陸軍の派兵懇請と共に海軍に対しても遣艦の申し込みがあったが、これも同じ理由で拒絶した。ただ次のようなことだけは、連合軍と連絡して行動をとった。

(1)青島攻落

まず我が国は膠洲湾に迫った。第二艦隊司令長官加藤中将は、八月二十七日、膠洲湾租借地全部の封鎖を宣言し、陸軍中将神尾光臣は、九月二日第十八師団の兵を率いて龍口湾に上陸し、海陸呼応して進み、十月十二日には非戦闘員救助の聖旨を伝えて、非戦闘員を我が軍に受領して済南に送り、十月三十一日の天長節を占って総攻撃を開始し、十一月七日イルチス、ビスマーク、モルトゲ諸砲台を占領した。同日午前ワルデック大佐はついに投降し、総攻撃七日で青島は完全に我が国に属した。

(2)南洋諸島占領

青島にいたドイツ艦隊は、はるかに南洋に逃れ、時々現れて連合国の商船に害を加えることが少なくなかったので、我が国は第一艦隊を組織し、海軍中将加藤友三郎はこれを率いて出動し、英国の濠州艦隊と協同して十月三日から十九日までにマーシャル・マリアナ・カロリンの三群島を占領し、もって敵の太平洋における根拠地を覆した。

(3)インド洋・地中海に出動する

我が国はさらにカナダ方面にも軍艦を遣わせて警戒し、またインド洋方面にも出動し、英国駆逐艦隊と協力して警戒掃敵の任に当たり、インド兵や濠洲〔※中国〕兵が欧州に出兵するのを送って紅海の入り口まで行くとか、ロシア国に軍需品を提供するとか、大正六年二月ドイツが無制限潜水艦隊を宣言して、連合国の戦艦はしきりに被害を被るや、わが艦隊は地中海に出動して、ドイツの潜水艇と戦い、運送船の護送は二百回にも達した。一方においては我が国の赤十字社が医員などを英・仏・ロシアの諸国に送って、戦傷病者を救護して博愛の精神をあらわしたので、世界賞賛の中心になった。

(4)シベリア出兵

欧洲においては、チェコ=スロバキアが、オーストリア=ハンガリー国で戦っていた勇敢な民族であるが、彼らはロシアと民族を一つにするところから、戦争中ロシアに投入してオーストリア=ハンガリー国にそむき、戦後は独立国をつくりたいと考えた。こうしてチェコがロシア国に入って共同戦線を張るうち、大正六年三月ロシア国に革命が起こって、十一月過激派の天下となり、ついにロシア国は単独講話をしてしまった。ここにおいてチェコはどうすることもできない。そこでシベリアから米国へ出て、さらに欧洲連合国の戦線に達しようとくわだてた。これは容易なことではなかったので、米国は我が国に出兵の援助を提議してきた。ここにおいて大正七年八月二日、寺内内閣は対ロシア出兵宣言を公表した。これはチェコ=スロバキア軍の東進に便宜を与えようとするためであったが、次第に最初の目的を越えて過激派討伐など複雑なことになって進退時を失ったものである。はじめは七千くらいの兵を出したが、後には七万三千人も出すに至り、十億の国財を費やし、三千五百の死傷を犠牲として手に入れるところはなかったようである。

(5)戦時の外交

戦争中大正六年九月四日、英・仏・露三国は、ロンドン宣言の名によって同盟条約を帰結した。

第一項 フランス国・ロシア国及びイギリス国政府は、現戦争中は単独に講和してはならないことを相互に約束する。
第二項 右三国政府は講和条件を議する場合において、いずれの同盟国もあらかじめ他の同盟国の同意を経ないで講和条件を要求してはならないことを約束する。

こういう意味の条約であった。当時駐仏大使石井菊次郎は是非この条約宣言に加わっておかなければならないと、我が国の政府に申し越した。時の外相加藤高明は、日英同盟があるから、それは二重の手間ではないかと同意しなかったが、そのうちに石井子爵が外務大臣となってかえるようになった。石井子爵は時の総理大隈重信の了解を得て、フランス国を立つときに英仏当局と面議して、ロンドン宣言に加入の内意を伝えてかえり、後についにこれに加入したので四国同盟が成立し、これにイタリアが加入して五国同盟となった。やがてロシア国が革命のために、これを抜けて、米国が加入し、「主要連合国」の名で平和会議に華々しい活動をするに至った。

(三)平和条約を結ぶ

戦時中ロシアが単独講和をしたので連合側もやや不利であったが、大正七年にはブルガリアが倒れ、十月トルコ・オーストリア=ハンガリーが相次いで屈服し、そのうち十一月に至ってドイツに革命が起こり、十一月十一日ついにドイツは無条件をもって休戦条約に調印した。
ここにおいて連合国の講和委員は、フランス国パリの西方のベルサイユに集った。この会議に集った連合国は二十七ヶ国、代表六十七名に及んだ。大正八年二月以来、米国大統領ウィルソンが提唱した十四ヶ条を基準として会議を進め、国際連盟規約をも立案し、案が成立するに及び、五月七日から正式に会議を開き同月二十八日講和条約に調印された。
この会議の中心をなすものは、前述の五大国であった。我が国は西園寺公望牧野伸顕・珍田捨大己・松井慶四郎・伊集院彦吉、英国は首相ロイドジョージ・バルフォーア・ミナルナー、米国は大統領ウィルソン・国務卿ランシング、フランス国は首相クレマンソー・ビション、イタリア国は首相オルランド・ソンニノなどを遣わせて委員とした。
この会議において、猛烈な支那の妨害を排除して、我が国は膠洲湾及びドイツが山東省において有した、一切の権利を得た。
またウィルソン並びに英国のスマッツ将軍によって提唱された国際連盟案は最も論議の中心となり、紆余曲折を経て、全規約二十六条が可決された。我が国の主席全権西園寺公望もこれが支持者であったが、我が国はこの時、人種差別撤廃すなわち人種平等主義を連盟規約中に明記しようと提唱し、過半数の賛成を得たが、全会一致の同意を得ることができなかったので、ついに否決となったから、我が国の全権はこれを後日に保留して終わった。
我が国が占領した旧ドイツ領の南洋諸島は、、この時国際連盟から我が国に統治の委任をした。
委任統治というのは、その主権がどこにあるのか明らかでない。これはスマッツ将軍の独創に出たもので、各国が義務として旧ドイツ領を引き受けることにすれば、賠償金を成功させることができるというので、欧米の政治家は一も二もなく賛成したものである。

(四)皇太子欧洲を巡遊しなさる

大正十年三月三日皇太子裕仁親王は、閑院宮載仁親王・伯爵珍田捨己他十六名を伴わせられて、欧洲巡遊のため万里の御旅程におのぼりなさった。これは御父君の厚い思し召しによったもので、各国の元首を訪問して親交を重ね、諸国の学芸、産業の実際から、大戦後の社会の状態を親しく視察しなさり、あっぱれ未来の帝王としての御修養のためであったろう。実に皇太子の世界御巡遊は、かつてない盛事で、国を挙げて慶福の至誠をあらわし、半年の長旅御つつがなかれと神祈りに祈るところがあった。御召艦香取・供奉艦鹿島は、堂々横浜を出発して、艦列が次第に視界を没し去ったとき、御見送り終えた逓相野田卯太郎は、汽艇で岩壁に引き返し、御召艦を港外に遠く見送りつつ、「乃公が子供時代は、世界といえば唐・天竺としか知らない者が多く、たまに黒船が来たと言って大騒ぎをしたものだが、わずか五六十年の間に、東宮御渡欧という御盛事を拝し、国威の発場を今さら痛切に感じた。特に殿下が甲板上に立たれた御英姿は、将来日東海国の元首として、我が国の誇りでなければならない」と言って次のように詠んだ。

空晴れて 東風に 御艦の 錦旗かな

もしかするとこれは野田逓相一人の感じではなかったろう。

この時から殿下は多年友好のよしみが厚い英国をはじめ、フランス・ベルギー・イタリアの連盟各国を御巡幸、一路平安九月三日横浜におかえりなさる。この間殿下の御交際は堂々たるものがある。諸国の新聞は「驚異すべき殿下」とか「最も平民的でいらっしゃる殿下」とか「偉大なる未来の帝王」とか「明治天皇の御再現」とか言って賞賛おかないものがあった。こうして我が国はいよいよ世界的に重きをなすに至っている。

(五)皇太子摂政の任に就きなさる

時におそれ多くも、天皇の御病は長い期間におわたりになったので、大政を御自らしなさることができなかったため皇太子を摂政に任じなさった。これは皇室典範第五章第十九条第二項に、「天皇が長い期間にわたる故障により、大政をみずからすることができない時は、皇族会議及び枢密顧問の議を経て摂政を置く」とあり、第二十条に「摂政は成年に達した皇太子または皇太孫、これに任じる」とあり、第十三条に「天皇及び皇太子は満十八歳をもって成年とする」とある。裕仁親王は大正八年五月七日御成年式を御挙行になっているから、大正十年十一月二十五日午後二時次のように大詔が出た。

朕は長い期間にわたる疾患により、大政をみずからすることができないことをもって、皇族会議及び枢密顧問の議を経て、皇太子裕仁親王を摂政に任じる。ここにこれを宣布する。

こうして皇太子摂政のことが定まったのであるが、摂政については、憲法第十七条第二項に「摂政は天皇の名において大権を行う」とあり、皇室典範第十六条に「摂政在任の時は前条のことを摂行する」とあって、前条には「皇族は天皇これを監督する」とある。だから裕仁親王はこの二大権を摂行されることとなったのである。
皇太子摂政のことは推古天皇の御代に聖徳太子がいて、斎明天皇の御代に中大兄皇子がいる。今や裕仁親王聖徳太子の尊と徳、中大兄皇子の智と勇を兼ねなさり、日夜御寸暇なく御多忙でいらっしゃることになった。
天皇の長い期間にわたる御病気については、国民は等しく憂いに満ちたものであり、皇太子の御励精に対してはおそれ畏まることを感じたが、しかし一面においては少しも迷うところなく皇太子摂政のことあって、皇位は磐石のように強固な基礎に立っていることや、皇太子が御英明でいらっしゃることを、目の当たりに認識せずにはいられなかった。

(六)ワシントン会議開かれる

世界大戦後、国際関係に大変調をきたし、国際間における在来の均整は完全に一掃されて、新たなる秩序や編成を立てることが必要になってきた。
国際連盟は大いなる画案には相違なかったが、いまだ十分な試練と修養を積んでいない。
したがって国際間の安定と平和とを与えるものは、依然として列国間の実力均衡の他にはなかった。
この均勢を考えるものには二つある。一つは欧洲の新均勢、一つは太平洋方面の新均勢である。
太平洋方面では米国が英国をしのいで第一の主力艦を持とうとし、新興日本はまた第三位に躍進しようとするに至った。ここにおいて軍備はますます拡張の競争が行われ、第二の世界大戦を見るやも測りしれない情勢となってきた。
米国大統領ハーディングはここに着眼し、海軍の軍備を制限して世界平和を確保し、かたわら支那に関する問題を議し、太平洋方面の暗雲を一掃しようと提議し、日・英・米に加えてフランス・イタリア並びに支那・オランダ・ベルギーなどの特別関係がある代表者を招いたので、我が国からは貴族院議長徳川家達海軍大臣加藤友三郎・駐米大使幣原貴重郎、後に外務次官埴原正直を全権として出席させ、会議は大正十年十一月一日の欧洲大戦記念日をもって開会し、翌年二月六日に至る約三ヶ月であった。この時決定した事項は次のようである。

一、各締約国の主力艦の合計t数は基準排水量において、英米は五十二万五千t、日本は三十一万五十t、フランスイタリアは十七万五千t限、排水量は三万五千t限、口径十六インチ砲限。

一、航空母艦において、英米は十三万五千t、日本は八万一千t、フランスイタリアは各六万t限、排水量二万七千t限、口径八インチ砲限。

一、補助艦は排水量一万t限、口径八インチ砲限。

いわゆる英・米・日主力艦、五・五・三比率を決定したもので、これによって我が国が存置することができるはずの戦艦は陸奥長門・日向・伊勢・山城・扶桑・霧島・榛名・比叡・金剛ということになったのである。これは昭和十一年までの有効期間である。
この時、日・英・米三国において、香港をも加えた太平洋方面における要塞及び海軍根拠地に関して、現状維持を行うことを約束した。ただしこの制限は、ハワイ諸島・濠洲・ニュージーランド・日本本土をなす諸島(千島・小笠原・奄美大島琉球・台湾・澎湖島は現状維持)米国・カナダには適用されない規定である。

また日・英・米・仏間に四国条約をも締結した。これは太平洋方面におけるその島嶼である属地及び領地に関する各自の権利を互いに尊重すること、もし争議発生の場合は四国会議に委託することを定めたもので、有効期限は十年である。この条約が結ばれたので、日英同盟は自然消滅の形となった。
日英同盟は明治三十八年攻守同盟となったことは前に述べたが、四十四年七月に、英国が米国と仲裁裁判条約すなわち両国間に紛争が生じた場合は、万国仲裁裁判によって決定する条約を結ぶために、将来英国が第三国と仲裁裁判条約を結ぶときは、第三国に対して、日英同盟は有効でないことと改めたのである。
しかし日英同盟のような有力な同盟は、第三国をして快くなく思わせ、例えば米国はそれであったので、英国内でも議論があり、また国際連盟規約によって日英同盟は有効ではないと論じる者もいたが、今この四国条約によって、日英同盟はついに消滅した。

(七)支那及びロシアの革命

こうして世界外交の中心はだんだん東洋方面に移って来たのに、我が国の隣邦の秩序はすこぶる乱れている。
支那は光緒十八年(明治二五)すでに広東人孫文(逸仙はその人の号)興中会を創立して革命の機関とし、満洲族清朝を倒して漢人の天下を起こそうとし、以来着々としてその根を張っていた。光緒三十四年(明治四一)十月二十一日光緒帝は崩御し、翌日西太后がまた崩御するや、遺詔して醇親王(光緒帝の弟)の長子溥儀を立てて嗣帝とし、醇親王を摂政であるとさせた。溥儀が立って宣統と改元、宴統帝方に三歳、政事一に皇親に決定し、宣統三年(明治四四)の内閣では十三大臣中その九人までを満族とした。また当時支那は我が国が日露戦争に勝ったのは、立憲によるものとし、これに倣おうという声が盛んであったので、内閣は宣統四年に憲法を発布し、五年に国会を開設することを約束したが、その誠意は乏しかった。また当時の清国政府は、赤貧洗うが如し状態であったから、鉄道国有を断行した。
これらのことが多くの反対者を出し、革命党は兵を起こして武昌を占領し、次第に漢口・漢陽を陥落させた。これを辛亥革命という。この革命に応じる者が続出したので、宣統帝は明治四十五年二月十二日ついに退位される。清朝は太祖から十二世二百九十七年にして滅亡した。
ここにおいて中華民国が起こり、共和制体となり、同年(大正元年袁世凱は臨時大総統に推され、翌民国二年(大正二年)には国会の選挙によって袁は正式に大総統となり、したがって支那共和国も正式に成立し、列国はまたこれを承認した。袁はだんだん皇帝とあろうとして失敗し、大正五年六月病死し、黎元洪が大総統となる。この時張勲は一時宣統帝を腹位させた。時は大正六年七月であったが、同月たちまち失敗して、民国は依然成立し、溤国璋が大総統となり、六年八月徐世昌がこれに代わり、十一年五月黎元洪が大総統となり、十二年十月曹錕がこれに代わり、同十二年十一月段祺瑞が臨時執政となって昭和元年四月退職、昭和二年六月張作霖大元帥となった。

さてこの時から以前、大正六年九月、広東において孫文が推されて大元帥になり、大正十年四月孫文は大総統となったから、南北政府と両国会が対立して争うこととなった。孫文は大正十四年三月北京で死んだが、孫文三民主義すなわち民族・民生・民権を標榜し、その手段としては軍政・訓政・憲政によるといって、人民の共鳴を得た南方の総司令蒋介石は、軍を揚子流域江に進めてますます勢いを得て、ついに昭和二年四月南京に国民政府を成立させ、この時から北方軍閥を討伐すれば軍政期を終えるものとしていた。それなのに北方の張作霖の勢いはだんだん利がなくて、北方を去って泰天にかえろうとする途中、昭和三年六月急に死んで、その子、張学良は同年十二月国民政府に服従することとなった。この時から以後、民国は南京を首府として蒋介石を首席とする国民政府によって統治されるようになった。この統治は中国国民党という孫文のつくった一党のみを認めるので、一党専制の統治であり、現在は訓政期だというが、実際は蒋介石一派の独裁で、政権の争奪が暗々に行われ、今日は民族主義国家主義と資本主義と共産主義というように国内は雑然として収拾はまた困難である。国民政府の統一といっても、二十二省の江蘇・淅江二省の政府といってよい。一方には赤族または赤匪といっている共産党及び共産軍がその勢いは猛威を極めているし、その他閻錫山がいて溤玉祥がいて広東・広西に別勢力があり、満洲には新興国が生まれている。その外交は常軌を脱し、列国環視の内にあって醜態を暴露し、隣邦日本の迷惑はこの上もない有り様である。対支那外交は我が国今後の最大関心事となっている。

ロシア帝国が建国の基を築いたのは、我が国の清和天皇貞観四年(皇紀一五二二)で、モスクワ大公イワン四世が初めてロシアの皇帝と称し、東はシベリア経営の端を開き、西はカスピ海までを侵略して国勢は盛んであったが、死後内紛が起こり、ミカエルロマノフがこれを鎮定して皇帝の位に登った。これは後水尾天皇の慶長十八年(皇紀二二七三)であった。ロマノフ朝はここに起こったのであるが、ピョートル大帝というのはミカエルロマノフの孫である。
ニコラス二世の頃には、ヨーロッパの他の国家では、トルコを除いてことごとく立憲政治を行っているのに、ロシアだけは君主専制の政治を行って、人民によって政治を興らせる近代的傾向を無視していたから、早くから反帝思想が起こっていたが、政府はこれに対して、あくまで高圧的な態度を執った。ちょうどその時日露戦争が勃発して、敗報がしきりに至るに及び、政府の無能を攻撃する声が高くなり、憲法の発布・国会の開設を要求することがしきりであったから、明治三十八年十月、ついに詔勅を下して立憲政体とする旨を公布した。
ここにおいて自由主義者は次第に増長して、翌年四月の第一回国会には政府に迫って民主的憲法を要求するに至り、議会は解散となって内紛がうち続くうちに、世界大戦となり、連合国に加わったロシアが、西方国境において戦いは敗れ、物資ははなはだ欠乏して困窮するに至ったので、大正六年三月ついに革命が起こってロマノフ朝がたおれ、ケレンスキーの仮政府が立ったが、十一月過激派の首領レーニントロツキーなどはついに仮政府をたおして、社会主義ソビエト政府を立て、ニコラス二世をシベリアに流し、次いでこれをころし、連合国に背いて同盟国側と休戦し、翌年にブレストリトウスクで単独講和を結んだ。
ロシアはこの時から全世界の過激化をはかり、国内には反過激派もいて動揺は常ではなく、先の述べたチェコ=スロバキアは捕虜としてシベリアに移されるし、ドイツの勢力が次第にロシアに入り込んで来たので、我が国は一つはチェコの救援、一つは反過激派のオムスク政府を助けて過激派を防止すること、一つはドイツ勢力が東に次第に伝わり広まることを阻止すべく、時の寺内内閣が大正七年八月二日シベリア出兵を宣言したのであった。我が国の出兵に対して過激派は大いに憤慨し、大正八年ニコライエフスク(尼港)において、石田領事他同胞七百名を文字通りに虐殺した。ここにおいて我が国はさらにシベリアに増兵して北樺太及び対岸のサガレン州を保障占領した。シベリア駐兵は実に四年間であった。

(八)日本支那の親善と日露の修好

こうのような四隣の情勢のうちに、我が国は友邦の好を重んじて、国交を修めるという方針をとって進んだ。
先に日独戦争が開始されるや、大正四年五月二十五日我が国は支那共和国と交渉を重ねていわゆる日支条約を結んだ。支那では袁世凱の総統時代になる。この条約では「支那国政府は、ドイツ国山東省に関して有する一切の権利譲与などの処分につき、日本政府と協定する一切の事項を承認することを約束する」などを定めた。提出した条約案は五項二十一ヶ条である。後に至って支那はこの条約を屈辱的外交であると憤慨し、国恥記念日などを定める。しかし堂々と条約は成立しているのであるから、我が国は英・仏・伊に交渉して、大戦後は膠州湾及び山東省の利権を一度は日本に譲渡し、しかる後日支条約によってこれを処置すべきことを約束した。
やがてヴェルサイユ平和会議が開催されるや、支那は大正六年八月十四日溤国璋の総統時代に、ドイツに対して戦宣を布告しているから、この時において日支条約は無効である。したがって膠州湾及び山東省は一時でも日本に譲る必要はない。いわんやこの条約は支那が日本に脅威されてやむなく結んだものであるからと、頑強に日本に反対したが、いずれも理由にはならないので、日本の主張は通った。しかし支那代表は山東問題を保留し、全然講和条約の調印を拒否した。
こうして未解決のまま残っていた山東問題は、大正十年(徐世昌総統時代)ワシントン会議において再び上った。この時我が国は、多大な犠牲を払って獲得した山東における一切の権利を、ほとんど無条件で支那に還付し、ここに両国の交誼は復旧し、互いに携えて東洋文化の開発に当たろうとつとめた。
またロシアの秩序が整うにしたがって、我が国は次第にシベリア地方から徴兵し、この時から大正十年の大連会議、十一年の長春会議、十二年の東京会議などを経て、北京における芳沢謙吉・カラハンの会見となり、六十数回の会議を重ねて、ついに日露間の条約は結ばれ、調印されたのは大正十四年一月二十日であった。この条約では

一、 樺太における石油・石炭の採掘利権を日本に与えること
一、沿海州一帯の漁業権を日本に与えること

その他を定めて、両国の国交は回復されたのである。

学習参考

(1)挿絵解説

「皇太子英国ロンドン市の歓迎会に望みなさる」絵は御写真によったもので、大正十年五月ロンドン市のギルドホールすなわち公会堂で、皇太子がロンドン市の歓迎会におのぞみなされた時の光景である。殿下は御椅子を立ちなさり、演壇の端までお進みになり、片手脇に御帽子をはさみ、片手には答辞を持ちなさる。この時から会衆に御演説になるのであるが、その御態度は実に立派なものであったともれうかがう。殿下の後に椅子に寄ってロンドン市長夫妻がいる。右方前列に御椅子にかけなさる四人の右から、コンノート殿下、ヨーク殿下、閑院宮殿下、英国皇太子殿下であり、ロンドン市長の左に起立するのは駐英大使林権助男、その後ろが供奉長珍田伯、その後ろの右が奈良東宮武官長である。式場は荘厳なもので、日英親善の気分が濃厚なものであった。なお二荒芳徳・沢田節蔵著皇太子御外遊記によれば、当時の御模様がよくわかる。
「パリーの講和会議」は当時の写真によったもの。大正七年十一月十一日休戦の条約が成立し、大正八年一月から二十七ヶ国の代表六十七名が、フランスのパリ西方ヴェルサイユに会し、大正八年六月二十八日講和条約は調印された。
この間総会議というものは、大正八年一月十八日に第一回を開き、その時から六回を開いただけで、あとは部分会議であった。この写真はその総会議中のものである。室はルイ十四世王宮内の時計の間で図の最も左に立っているのは米ウィルソン、その隣が英のロイドジョージ、ウィルソンと相対するのが仏のクレマンソー、その後方背の高いのが英外相バルフォア、図の中央より少し右手前に椅子に寄るのはイタリアのソンニノ、その向こうに椅子に寄ってこちらを見るのは我が国の西園寺公、その後に牧野全権、その隣に松井全権、ソンソニの前に立つのはイタリアのオルランド、ソンソニの右手前にカバンをもって立っているのはブオッシュ元帥である。

(2)指導要領

我が国が明治時代の連続として世界的舞台に立って、重きをなすに至った次第や事実を、少し詳細に取り扱った方がよいと思う。どうしてかというとこの教材は大正時代の代表的なものであり、明治の時代をうけて、今日に投影している重要な場面だからである。
「大正時代に入って、我が国がどの程度に世界的発展をしたか」ということが中心の問題になるであろう。
序を求めて外国史の取り扱いを加え、我が国と比較し、かつ我が国との関係に汲んでおく方がよい。
こうして我が国の国際的発展を認感させると共に、国家の前途はいよいよ複雑となり、責任も日に加わって行くことから、将来の覚悟を暗示しなければならない。
国際的国家の文化発展を展望しながら、この複雑な世局を切り拓いて進んでいこうとする国民の見識と意思とを養うのである。
地図も必要であるが、挿入地図は不完全であるから、地理の方と連絡して、条約国などをまとめておいた方がよい。