『高等小学国史新指導書』下巻p184

p184(三)もろもろの制度改革される

大使が欧米に派遣されるや、数多の留学生が伴われていき、数人の少女もこれに交じった。すなわち黒田清隆の主唱によって婦人の海外留学を見るに至り、この時に後の大山内大臣夫人捨松(当時十三歳で山川建次郎氏令妹)瓜生海軍大将夫人シゲ子(当時十二歳で益田孝氏令妹)吉益雄娘スゲ子(十六歳)津田仙弥娘梅子(九歳)上田峻娘悌(十八歳)の五人が留学を許されたのであった。
この後国民が海外諸国を視察し、かの地に留学する者も多く。知識を世界に求めて我が国の文化を補うという風は、維新の気運と相まって盛んになり、もろもろの制度が改革されたものは少なくなかった。

(1)学制

中でも国運の発展は、主として国民教育の力によるべきをもって、新たに学制を布(し)くこととした。維新後はしばらく従来のように各藩の教育を続けたのであるが、文部大輔大木喬任は明治四年七月文部大丞田中不二麿を理事官として欧米に派遣し、学事を視察して帰らせた。翌五年初めて学制を一定して義務教育の方針を明示するに至った。この時の学制で、中央集権であるところは仏国制度に倣い、小中大学の連絡方面は米国制度によったものである。つまり全国を八大学区とし、一大学区を三十二中学区とし、一中学区を二百十小学区とした。尋常小学は下等小学が六歳から九歳、上等小学が十歳から十三歳とし、幼童の子弟男女の別なく小学に入れない者は、その父兄の落ち度であるべきことを宣示し、邑(むら)に不学の人を無くそうとすることを期したのである。

(2)徴兵令

三浦博士の兵制の六変と言われたのは、第一期が兵制という程のものがなかった時で、大判氏など親衛であり、必要があれば誰でも兵役に服したのである。第二期は大化改新以来いわゆる令の兵制で、令では二十歳から六十歳までの正丁三人ごとに一人を取る標準で、国民一般から徴兵された。第三期は令の徴兵が次第に修正されて、兵役は地方豪族に移っていった平安初期である。第四期は荘園からの兵士・国衙の兵士として知行国から一人、公卿から一人というように徴兵された時である。第五期は源平以来の御家人制度である。第六期は明治における徴兵令の実施である。
武家政治の終わりを機として大村益次郎は兵制を改革して様式になそうとし、かつ徴兵の意見をもっていたので、彼は守旧党から阻まれ、京都の木屋坊の旅宿で倒れた。山懸有朋はまた大村と志を同じくし、明治四年五月二日兵部省を分けて陸軍・海軍の二省とし、有朋は陸軍大輔に、河村純義は海軍少輔になってその首脳となり、同年十一月徴兵の令を定め、翌年六月一日発令された。その精神は令の古制に復活するのにあった。この徴兵令は全国皆兵の原則により、旧士族の手中から兵権を奪って、四民の権利義務としたもので、男子二十歳に至れば皆兵籍に編入し、その中から徴兵して陸海両軍に充て、三年の常備軍、四年の後備軍前後七年の兵役に服させる制度であった。